1992年東大文系数学背景【引用】

ここから引用(俺の書いた記事ではない)〜


 xについての方程式 px^2+(p^2−q)xー(2p−q-1)=0
 が解をもち,すべての解の実部が負となるような実数の組(p,q)の
 範囲をpq平面上に図示せよ.
                        (’92 東大・文系)


やはり解くだけなら簡単である.
まず,pが0のときは2次方程式でないので別に考えて(←このときのことを考慮して,問題文ではわざわざ「・・・が解をもち」などという言い回しをしている.こういう点にぱっと気づかないような気のきかない奴は会社でも出世しない気がする.)

それ以外の場合は両辺をpで割って
             x^2+Ax+B=0
の形にして考えることにしよう.このとき,2つの解の実部がともに負であるならば,
「2つの解の和の実部」=「2つの解の和」は明らかに負である必要があり,
逆にこのとき,2つの解の積が負ならば正と負の解,2つの解の積が0なら解として0を含み,
2つの解の積が正ならば2回は負と負または虚部が負の2つの虚数解となるから,求める条件は
            A>0 かつ B>0
となるわけである.
(東京出版の「大学への数学」他多くの受験参考書では,実数条件をつかって場合分けしているが,
本問において解が実数かどうかで場合分けして考えるのは得策ではない.上の解答と比べてみるとよいであろう.)
さて,「こんな問題を解いて何の意味があるのだろう?」と考えるところから「数学」は始まるというのはこの前に書いた通りである.

私自身はこの問題は見た瞬間に1秒もせずに解法の方針が浮かんだ.それは,日頃からよく使っていたからである.
一見単なるつまらない計算問題に見える問題でも,その背後には重要な理論が隠れていることが多く,
それを見つけるのが数学者,自然科学者の仕事なのである.それでは,本問の本質とは何か?
それは「システムの安定性」である.自然科学では,考えている対象をモデル化して考えるのが古典的な常套手段になっている.
そして,医学などでは多くの現象を,それと同じ価値の「等価回路」になおして考えることが多い.
たとえば,生物学などで細胞膜における物質の透過性などは等価回路を使って考えることが多い.
本問のテーマは,2階微分方程式で表されるシステム(=2次システム)がどのような時に安定なのかということである.
最も簡単な2次システムの例をかいておくと,高校の物理などでもでてくる直列につながれたRLC回路などがそうである.
自己インダクタンスをL,コンデンサーのキャパをC,抵抗値をRとすると,コンデンサーの片方の電圧をvとすることによって,
準定常電流(←実は,理論的には,準定常電流とか準静的過程とは何か?を考える方が面白いと私などは思うが...)
という仮定の下でキルヒホッホの法則(←工学系では鳳ナブテンとかいったっけ?勉強したのがもう20年くらい前なので忘れてしまったが...)
を使えば,普通の高校生でも知っている

    LC(d^2v/dt^2)+RC(dv/dt)+v=0
という2階線形微分方程式をえる.ここで,v=Ae^kt(kは複素数の定数)がこの微分方程式の解であると考えると,kのみたすべき方程式が
            LCk^2+RCk+1=0
となる.この固有振動Ae^kt(Aが0でない定数としておく)が時間とともに減衰していくことをシステムが安定であるという.
そしてその条件がkの実部が負になることなのである.たとえば,心臓のペースメーカに流れる電流が不安定だったりすると大変なことになってしまう.
橋をつくるときに,橋を伝わる波が橋の端っこで反射して定常波になってエネルギーが橋にたまってしまうような橋も不安定である.
そうではないという条件を考える問題であったわけだ.

数式というのは詩と同じで,何も知らない人間にはその数式も詩の中の一節も何も語りかけてくれない.
しかし,いろいろな数学的現象に出会い,それを大切にした人間にだけ,そっと語りかけてくれるときがある.
詩を内容のない単なる文字列ととらえることもできるし,数式をつまらない計算の道具と考えることはできるが,
私はそういう考えはしていない.誰にでも見えるものよりも,自分にしか見えないものの中にこそ,
最も大きな価値があるような気がするのだ.そして,それを1度経験しまうと,
俗世の喜びでは決して満足できない人間になるという例を私は数限りなく見てきた.
よく,「数学なんて何が楽しいんですか?」と言われる.正直,私自身もどきどきは思うこともある.
しかし,他の多くの,そして,おそらくは他のすべての喜びよりも,より豊かなものがそこにはあるような気がすることも多い.
俗世よりももっと魅力的なものがいっぱいあるのが数学の世界だ.何も「聖人君主」が学問をやるわけではない.
もっと魅惑的な世界が広がっているから学問をやるというのが本当の姿なのである.私は「解ければいい」.
「合格すればいい」という生徒や父兄を多く見てきた.彼らは「別に数学者になるわけではないから」という.
しかし,それは正しい理由ではないと思う.おそらくは,本当の数学の美しさや楽しさを知らないからではないだろうか?
たとえば,東大や京大の数学科の先生などには,模擬試験で1番をとってきた人が何人もいる.
医学部に行こうと思えばいけたであろうし,その才能をもっと別のところにいかせば大金持ちになったかもしれない
そして,世間ではきびしい数学の世界を選び,わざわざあまりお金のないような生活をする人間を「変わりもの」というが,
私から見れば何も変わっていないのだ.普通の人間だからこそ,大きな喜びから逃れられなくなっただけである.
数学からきこえてくる「言葉」がきこえたことがない人にどんなことを言ってもわからないのは,
サッカーの楽しさがわからない人間(=たとえば,私)にサッカーの楽しさを教える以上に難しいからこれ以上は書かないが,
数学をやる人間について世間の風評というか感想には「?」と思うようなことばかりなのでちょっと書いてみた次第である.
数学の専門家が数学を好きなのは,世間の人が「金」や「権力」や「異性」にひかれるのと何の違いもない.
そして,それら以上の喜びを「数学」は与えてくれると感じているからやめられないだけなのだ.
実際に,私の場合も,100億円もっている人がすることを見ていても,「ああ,こんなことか」としか思わないが,
私などがどんなに頑張っても構築することのできないであろう理論を美しく展開する人の論文を見ると,私の場合は,天上界を見ているような気がするのである.


〜ここまで引用

引用元
http://web.archive.org/web/20070112231214/http://www16.ocn.ne.jp/~suuri/diary/diary2006-06.htm

こういう単純な問題にも深い意義があるとは。