2012年センター試験現代文の著者本人の感想【引用】

大学入試センター試験に出題された文章について
木村 敏

 今年(2012年)の大学入試センター試験に出題された国語の問題文に、私の書いたものが入っていた。かなり抽象度の高い文章で、受験生の諸君はお困りになったことだろう。
 最初、この出題文を一読して、どう見ても私自身の書いた文章に間違いはないのだが、「境界としての自己」というタイトルもその出典もまるで記憶になく、非常に困惑した。これまであちこちの大学入試で出題された私の文章は、そのほとんどが『異常の構造』、『時間と自己』、『あいだ』などの単行本から取られていたから、自分でもそれなりに納得していたのだけれども、今回だけはかなり様子が違って、ひどく落ち着かない気持ちになった。
 しかしさすがに河合塾はすぐれた情報網をもっている。試験の2日後には出典が判明した。『現代詩手帖』(思潮社)の1997年5月号、「境界のエクリチュール」特集だった。しかしそれを教えられても、それでもまだこんな難解な文章を書いた動機が思い出せなかった。ところがそのさらに2日後に、文教研の加藤さんが京都まで来られる機会があって、この「境界としての自己」が掲載された当の雑誌のバックナンバーを持参して下さった。それに載っている自分の文章の、最初の部分を一読しただけで、これを書いたときの状況がまざまざとよみがえってきた。話の要点はこうだ。
 京大の精神科に勤めていたころ、京大教育学部と京都女子大でそれぞれ臨床心理を勉強している院生諸君の臨床実習を引き受けていた。いつも実習がすむと、近くのレストランで一緒にランチを食べながら、いま診たばかりの患者さんの精神病理について話し合うのが習慣だった。あるとき一緒に来ていた男子学生と女子学生の二人が、それが縁で結婚することになり、披露宴の招待状に「一緒に食事したのがよかった」と書いてあった。「同じ釜の飯」を食べるということは、人と人とを結びつけるのにはとてもいいことではないだろうか、という趣旨のことを書いた文章だったのである。
 この具体的なシチュエーションをすっかり省いて、「複数個体の集団」が「生命空間」である「環境との境界」でいとなむ「生命維持行動」などという抽象概念ばかりを並べた中間の部分だけを出題されたものだから、こんな難解な文章になってしまったというわけである。
 純粋な哲学者ではない私なんかの場合、文章を書くときにはいつも、それを書かせる背景として現実的で具体的な体験がある。この個人的で私的な、いわば自分の体臭の染みついた体験を普遍化して、それに公共性をもたせようと思うものだから、ついついそれを無色透明な抽象概念に置き換えてしまうことになる。だからそうやって書かれたものを読む側としては、いつも書き手の私的な体験と公共的な概念世界とのはざまに ― それこそ「境界」に ― 身を置いて、著者は「本当は」なにを言いたいのかを読み取ってもらわなくてはならない。それではセンター試験のようなマークシート方式のテストには馴染まないということになるだろう。
 書いた本人すら忘れている文章を見つけ出して、これを問題に仕立てて下さった出題者にはあつくお礼を申し上げなくてはならないのだけれども、今回のテストでどうしても著者の側に残ってしまった違和感についてもちょっと考えてみたくて、こんな雑文を書く気になった次第である。